良いギャラリーと良い写真。珠玉の組み合わせでした。
森へ入り、森をでる
上田義彦は、写真家である。もし彼に、アーティストと呼びかけたなら、かたくなにそれを拒むだろう。大きなボックスカメラを背おい、屋久島の山道を登ってゆく上田義彦の姿を想いうかべる。それはかつて、北米のネイティブアメリカンの聖地QUINAULTにおいても行われたことであり、しかし重要なのは、彼が世に名づけられるネイチャーフォトグラファーなどでは決してないということだ。「上田義彦の写真」において、「森へ入る」ということは、彼の写真行為において欠くべからざる過程であり、それは「修業」などという安易な言葉すら超えて、上田義彦が考える写真のあり様の根本にかかわるものと思われる。写真家・上田義彦における森とは何か。そのことを僕はずっと並走し、考えてきた。そして今また、『M.River』という写真群を前にして、そのことをさらに考えたいと強く思う。
写真は事物を写し撮るものだが、ことはそう単純ではない。私たちはモノを見る。眼を使い、視覚により世界を認知する。とりこまれた視覚像はイメージとして記憶化される。極論すれば写真という機械の出現以前にも、写真という衝動は存在した。文学者マルセル・プルーストはそれを、「潜像」と呼んだが、彼が残した写真についての思考の断片は、写真が誕生してまもない時期の「実感」を我々におしえてくれる。「見る」あるいは「観る」という過程について、あるいは「まなざし」「イメージ」についての多様な力は、写真出現以前から人間の内で、ダイナミックに動いていたのである。写真という無垢な機械は、人間にとり無垢な他者ゆえに、人間に恩寵を与えることになったのだ。
その恩寵はいくつもある。たとえば、「まなざし」について。写真は事物の記録であるが、実は撮り手の「まなざし」の記録である。「まなざし」とは、例えば、誰かが景色を見ているのを見ればわかる。彼のように私も見ているということが「まなざし」の意識化ということだ。我々は世界を見ているが、写真という装置は、我々に見ることの再確認をしいる。「まなざし」を客観化し、自覚するということだ。その意味で写真は、「写真出現以前」にすでにある内的衝動を可視化し、カタチを与えるということに他ならない。したがって、すぐれた「写真の力」は、被写体の細部の力だけではなく、「まなざし」の伝染をひきおこす。写真集やプリントは、他の人の「まなざし」に没入することを拡張していく。このことは、精神分析医のジャック・ラカンが指摘し、それをヒントにロラン・バルトが写真へのアプローチとしたことであった。
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